天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍は約70,000(80,000とも)の大軍をもって北条家の河越城を包囲した(一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている)。河越城は北条綱成が約3,000の兵力で守備しており、放置すればいずれ落城してしまう。氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。戦況は数ヵ月間膠着状態であったが、氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。
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氏康は上杉軍に対して偽りの降伏を申し出た。上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を引かせた。これにより上杉軍は北条軍の戦意は薄いと思い込み、自軍の兵士が多いということもあり油断が生じた。
天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍八千を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ突入。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱いで身軽にさせ、上杉連合軍に突入すると、上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉家当主の上杉朝定は戦死した。しかし氏康が深追いした事を、後方より見ていて危険と感じた多目元忠は、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。一方、城内では戦況を見守っていた綱成がこの時とばかりに足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入、氏康軍に気を取られていた足利軍は総崩れとなった。連合軍の死傷者は13,000人と伝えられている。